土佐和紙の歴史
土佐の紙はどのようにして作られてきたのでしょうか?
その歴史は古く、1100年前の「延喜式」という書物で、すでに紙が作られていた記録が残されています。また約800年前、鎌倉幕府の検地により、吾川郡大野郷(伊野町)や中村郷(春野町)から「杉原紙」を13帖差し出した記録が残っています。「杉原紙」はいまの奉書のような上等の紙を差し、この頃にはかなり高度な製紙技術を持っていたことが伺われます。
慶長の初め(1600年ごろ)、伊予国宇和郡日向谷村(ひゅうがい)の新之丞が、成山村(現在の高知県伊野町)にきて、より近代的な上質紙を漉く技術を教えたという伝説がありますが、越前(福井)にも同様に「紙漉きの新之丞の伝説」があり、また九州でも、慶長年間に筑後八女郡から肥後に流れた紙漉きの新之丞の史実があることから、いずれが真実かは断定しがたいのですが、このころ日本各地の和紙産地で一定の技術革新があったことや、一般の人々が自由に諸国を行き来出来なかった当時に修験者や修行僧たちが、紙漉きや染色など手工業の技術の伝播に一役買っていたのは間違いないと思われます。
藩政時代には、特別に保護された「御用紙漉」という職があり、土佐藩で使う紙を漉いていました。また、特産品として「土佐七色紙」と呼ばれる柿色・黄・紫・桃色・萌黄(薄緑)・浅黄(薄青)・青の染め紙を幕府へ献上していたことは有名です。当時すでに土佐和紙の抄紙と染色の高い技術が評価されていたことがわかります。
< 吉井源太の功績 >
万延元年(1860年)に伊野町の吉井源太が大型の連漉き器を開発し、全国に普及させました。
また原料栽培の奨励・零細企業の組織化など製紙産業の合理化を推進し、西洋文明の導入に対応して、タイプライター用紙や謄写紙を開発しヨーロッパに輸出、土佐を全国一の和紙生産地に押しあげました。吉井源太が「土佐紙業界の恩人」 と言われる所以です。
土佐和紙の生産量とともに関連産業も発達し、簾網(すあみ)・桁作り・刷毛作りなどの用具の技術者がそろい、道具の基礎材料である竹ひごや編み糸も作られ、全国の和紙産地に送られていました。
原料の栽培も近年ではアジア産や南米産のものが増えてはいるものの、1986年には全国のほぼ半分の生産量を占めています。